2009年06月17日

有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した

1961年8月13日午前0時、東ドイツは、東西ベルリン間68の道すべてを閉鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した。朝6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。

東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張していたが、これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。壁は後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。

映像などを通じて広く知られている壁(右の写真)に加え、東ドイツ側にもう一枚同様のコンクリート壁があった。すなわち、西ベルリンは二重の壁で囲まれていたのである。その2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯 (death strip) となっており、東ドイツ当局の監視のもと、壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた。

また、無人地帯に番犬を置いたり、コンクリート壁の上部を蒲鉾型に膨らませて乗り越えにくくしたりという工夫もなされていた。なお、一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号線で高圧電流は流れていなかったとされている。壁崩壊後2枚の壁が、沖縄県宮古島市上野(旧上野村)のテーマパーク「うえのドイツ文化村」に寄贈され、この時に地下を含む構造が明らかになった。地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側が数倍長いのは、地下からの逃亡を防ぐためと思われる。

1963年6月26日、西ベルリンを訪問したアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは有名な「'Ich bin ein Berliner' 私はベルリン市民である」の演説を行った。この中で大統領は「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリンの市民である」と語り、これはドイツの戦後史での名セリフとしてドイツ国民に長く記憶されることになった。
星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
めの付く言葉
音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
ボイスドラマ
九州
カポエラ
ビオトープ
縄跳び
包装
ソフトボール

満65歳になって、東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは、当時の東ドイツにおける年金支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば、年金を払う必要がないため政府の支出がそれだけ減るという実に都合のいい理由が背景にあった。

それ以外に、東ドイツ政府に移民申請をして、許可が下りれば、他国への合法的移住が可能である。しかし言うまでもなく、許可は滅多におりず、65歳まで待つことが出来ないため、非合法の亡命という手段をとったものが圧倒的に多い。

壁が壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は、東ドイツ国境警備隊により狙撃された。死亡者数は合計192名。ただし、さまざまな方法で壁の通過に成功、生きて西ベルリンに到達した東ドイツ国民は5000人を超える。

東ドイツは逃亡者をなるべく殺害せずに逮捕するようにしていたため、3000人を越える逮捕者に比べると死亡者の数は少ない。可能な限りの身柄確保を図ったのは、逃亡の背後関係を調べるためであったと考えられている。

西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても、「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば、犯罪歴等がない限り西ドイツに亡命できる可能性はあった。

例えば、検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車にパスポートなしで乗り込み、国境でのパスポート検査で逮捕されるといった方法である。

他にも、共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ、西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また、特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。

2009年05月31日

孝宗の治世

秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石機の戦い(紹興三十一年、1161年)で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄、世宗)が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙慎(孝宗)が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ(隆興の和議、または乾道の和議とも言う)。

金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。

孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。
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孝宗は淳熙十六年(1189年)に退位して上皇となり、光宗が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、皇后李氏の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚・韓侂冑などにより光宗は退位させられた。韓侂冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓侂冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓侂冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓侂冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年には趙汝愚に与した周必大、留正、王藺、朱熹、彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。その翌年には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を慶元の党禁という。

韓侂冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた皇后と皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方のタタールなどの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、開禧二年(1206年)に北伐の軍を起こす(開禧の北伐) 。

しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧三年(1207年)、金は早期和平を望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎(文部大臣)の史弥遠により韓侂冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られれ、翌年の嘉定元年(1208年)に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。

2009年04月27日

ハイブリッドロケット

ハイブリッドロケット(英: hybrid rocket)は、相の異なる2種類の推進剤からなるロケットエンジンシステムである。最も一般的なものは、固体燃料がおかれた燃焼室へ液体か気体の酸化剤を供給する事によって燃焼を起こし、生成したガスを噴射してその反動で進むというものである。

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このシステムは安全性・出力調整・再着火性・環境負荷の面で固体燃料推進より優れている。ハイブリッドシステムは固体燃料よりも少し複雑だが、安全性の問題や、保存や運搬にまつわる問題が減ることでその欠点は補われている。

最も単純なハイブリッドロケットの形式は加圧された酸化剤を満たしたタンクからバルブで制御されて燃焼室に導かれる。バルブが開かれて酸化剤が燃焼室内の燃料に送られ、点火されて燃焼が始まる。燃焼ガスはポートと呼ばれる燃焼室内の燃料間に形成された通路を通り、ノズルから噴出して反動で推力を生み出す。

酸化剤には通常、気体か液体の酸素もしくは酸化窒素を使用する。燃料にはABS樹脂や合成ゴムがなどが用いられる。
うまく設計され、注意深く組み立てられたハイブリッドロケットの安全性は一般に高い。しかしながら、圧力容器が破損するなどした場合には破裂が発生することもありうる。

燃料は単体では不活性であり、爆発することはない。また固体燃料ロケットと違い、燃料に亀裂があってもノズルを詰まらせない限りは安全である。

推薬(推進剤)の組み合わせには "explosive equivalence" と呼ばれる危険性の指標が与えられることがある。これに推薬の重量をかけたものは同じ重量のTNT爆薬が機体を破壊する能力に相当する。固体燃料ロケットで100, 液体燃料ロケットで10から20であるのに対して、ハイブリッドロケットでは多くの場合0とされる。

2009年04月12日

重力レンズ

重力レンズ(Gravitational lens,じゅうりょく-)とは、恒星や銀河などが発する光が、途中にある天体などの重力によって曲げられたり、その結果として複数の経路を通過する光が集まるために明るく見えたりする現象。光源と重力源との位置関係によっては、複数の像が見えたり、弓状に変形した像が見えたりする。重力レンズ効果とも言われる。また、リング状の像のものはアインシュタインリングと言われる。
光が曲がることは一般相対性理論から導かれる現象で、一般相対性理論の正当性を証明した現象のひとつである。光は重力にひきつけられて曲がるわけではなく、重い物体によってゆがめられた時空を進むために曲がる。対象物と観測者の間に大きい重力源があると、この現象により光が曲がり、観測者に複数の経路を通った光が到達することがある。これにより、同一の対象物が複数の像となって見える。光が曲がる状態が光学レンズによる光の屈折と似ているため重力レンズと言われる。

右はその効果を示したCGである。1つの銀河から発せられた光(白い矢印)が、中央にある重い天体の影響によって曲げられ、それぞれ別の経路で地球へと届く。地球上の観測者からは、あたかも2つの同じ天体があるように見える。オレンジ色の矢印は見かけの光の経路である。

なお、複数の像はそれぞれ別々の経路を通ってきた光であるため、一般的に観測者(地球)までの到達時間が異なる。そのため、それぞれの像の光が対象物からでたのは異なる時である。

分類 [編集]
3つの種類に分類される。

強い重力レンズ(Strong lensing): レンズ源の影響が強く、アインシュタイン・リング、弓状に変形した像(arc)、複数の像など、光の曲げられる現象が明らかに観測されるもの。
弱い重力レンズ(Weak lensing): レンズ源の影響が比較的弱く、多くの天体の光線データを集計することによって、統計的にレンズ効果と判定される現象。宇宙初期の背景マイクロ波が地球に届くまでに銀河形成によって揺らぐ統計などの研究がなされている。
マイクロレンズ(Microlensing): 非常に小さいレンズ源のため、光の曲がりではなく、光の明るさの時間変化によってレンズ現象だと推定される現象。銀河内のダークハローを形成する小天体が、地球から遠方の天体との視線方向を横切るときなどに発生する例が知られている。

歴史 [編集]
重力レンズ効果は、1936年にアルベルト・アインシュタインが対象物、重力源、観測者が一直線上にならんだ場合にはリング状の像が見えると発表したことにより有名になった。このことから、リング状に見えるものをアインシュタインリングと言う。位置関係が一直線上からズレたり、重力源が無視できない大きさを持つと、それらの程度により弓状の像やゆがんだ複数の像が見える。弓状の像のものがアインシュタインリングと言われることも多い。

当初は、発生する可能性が低いため観測は不可能ではないかと考えられていた。しかし、1979年の3月に隣接するクエーサー像のスペクトルがまったく同じであることが発見され、8ヶ月後には、これが銀河を重力源とする重力レンズによるものであることが分った。以降多くの例が発見され、2005年現在で約100の重力レンズによる多重像クェーサー系が報告されている。

重力レンズの観測およびそれを利用した研究 [編集]
測定に近似を必要とするX線観測による質量測定と異なり、重力源の質量を直接光学的観測により測定することができる点が特筆すべき特徴である。

銀河による重力レンズ効果を観測することで、銀河自体の質量を測定することが可能である。この結果とX線測定によって見積られた質量を比較すると、明らかに差がある。これは銀河に分布するダークマターによる質量が寄与しているためと考えられ、すなわち重力レンズはダークマターの質量測定に用いることができる。つまりダークマターの解明に用いることができる現象であると言える。

2003年12月18日に東京大学などの研究グループがそれまで知られていた重力レンズよりも2倍以上光が曲がる変化を発見した。

また、重力マイクロレンズを利用した太陽系外惑星の探索をPLAN、OGLE、MOAなどのチームが行っている。

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2009年03月28日

疥癬(かいせん、英 scabies)

疥癬(かいせん、英 scabies)とは無気門亜目ヒゼンダニ科のダニ、ヒゼンダニ(学名:Sarcoptes scabiei var. hominis)の寄生による皮膚感染症。湿瘡(しっそう)、ひぜんともいう。日本ではヒツジの疥癬は家畜伝染病予防法における届出伝染病(同法の定める家畜伝染病以外の監視伝染病)に指定されている。

ヒゼンダニの交尾を済ませた雌成虫は、皮膚の角質層の内部に鋏脚で疥癬トンネルと呼ばれるトンネルを掘って寄生する。疥癬トンネル内の雌は約2ヶ月間の間、1日あたり0.5-5mmの速度でトンネルを掘り進めながら、1日に2-3個、総数にして120個以上の卵を産み落とす。幼虫は孵化するとトンネルを出て毛包に潜り込んで寄生し、若虫を経て約14日で成虫になる。雄成虫や未交尾の雌成虫はトンネルは掘らず、単に角質に潜り込むだけの寄生を行う。

交尾直後の雌成虫が未感染の人体に感染すると、約1ヵ月後に発病する。皮膚には皮疹が見られ、自覚症状としては強い皮膚のかゆみが生じる。皮疹には腹部や腕、脚部に散発する赤い小さな丘疹、手足の末梢部に多い疥癬トンネルに沿った線状の皮疹、さらに比較的少ないが外陰部を中心とした小豆大の結節の3種類が見られる。

過角化型疥癬 [編集]
時にはノルウェー疥癬と呼ばれる重症感染例もみられる。ノルウェー疥癬は1848年にはじめてこの症例を報告したのがノルウェーの学者であったためについた名称であり、疫学的にノルウェーと関連があるわけではないので、過角化型疥癬と呼ぶことが提唱されている。何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬はせいぜい1患者当たりのダニ数が千個体程度であるが、ノルウェー疥癬は100万-200万個体に達する。このため感染力はきわめて強く、通常の疥癬患者から他人に対して感染が成立するためには同じ寝具で同衾したりする必要があるが、ノルウェー疥癬の患者からはそこまで濃厚な接触をしなくても容易に感染が成立する。患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、牡蠣の殻のようになった角質が付着する。

歴史 [編集]
中国隋の医師?元方が著した『諸病源候論』に疥として記載がある。また、唐の孫思邈が著した『千金翼方』は、硫黄を含む軟膏による治療法が記載されている。

治療法 [編集]
治療薬には、γ-BHC外用、ペルメトリン外用、イベルメクチン(商品名ストロメクトール)内服といったものがある。日本では、2006年8月イベルメクチンが保険適応となった。γ-BHCは保険適応外で、研究試薬としてしか入手できない。ペルメトリン外用薬も国内では市販されていない。

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2009年03月12日

スホクラントとその周辺

スホクラント(Schokland)は、オランダ・フレヴォラント州の干拓地北東ポルダーにある、もとはゾイデル海に浮かぶ島であった場所。アイセル川の河口の北、北東ポルダーの南部にあたる部分に南北に細長く延びており、島の住民は独自の方言や文化を育んでいたが、高潮で危険であるとして19世紀に放棄された。1942年にはゾイデル海開発の一環となる北東ポルダー干拓工事によって陸続きとなり、島でなくなった。しかし低い干拓地の中に若干盛り上がった場所があることから、かつて島であったことがうかがえる。また「Middelbuurt」と呼ばれる集落のあった場所には、水際の擁壁の一部が昔のまま残っている。
ドバイ こぼれ ジェネ 月姫 キョウチ プイン プリプラ ハンドミキ キオス ストック スイートピ バランサー キクイン パンフ モカシン フィズ クォリティ そうめい ジンフ トップ デフォル きょくひ サーチナビム 村雨国内 ジンジャ 東へ西へ マルデ まっかり きうい ハナニ プラナ アプレッ ディスコ コック プルラン カイト ネイビー お手玉 とちひめ フォッグ ピョンヤン 金魚草 ヨーロッパ デコバギー ジャンク ノキオ ニューハフ デントデー ドール よもぎ

歴史
スホクラントが周りから高くなっているのは、最終氷期の氷河地形の名残であり、氷河が流れたあとに形成した土手がもとになっている。古代には広い低湿地が広がっていたオランダ北西部は、北海の海水面上昇と南への海水の進入により巨大な湾であるゾイデル海へと変わった。スホクラントは中世にはゾイデル海の中に突き出した半島であり魅力的な農地となっていたが、絶えざる海水による浸食により、15世紀には海中に孤立した島となってしまった。

北海が荒れるたびにゾイデル海も波の影響で荒れ狂うため、スホクラントは絶えず洪水や高潮の脅威にさらされる土地となった。19世紀までにスホクラントの面積は中世の時点からますます小さくなり150ヘクタールほどに縮小し、住民は低地を捨てて高台に集落を移し漁業などで生計をたてた。これが 北の集落Emmeloord, および南の二か所の集落 Molenbuurt, Middelbuurt の三集落である。これらの集落はオーファーアイセル州に属しており、北の集落は主にローマ・カトリック、南の二つの集落は主にオランダ改革派を信仰し、三つの集落からなる自治体スホクラント村には1849年に641人の人口があった。孤立した島に住む人々は独特の方言(Schokkers)を話し独特の衣装を作るなど、島独自の生活や文化を築いてきた。

しかし1825年の大洪水でスホクラントは破壊され、オランダ政府は1859年、人命の危険があり堤防建設など生活維持に費用のかかることを理由に、スホクラントでの恒久的集落の放棄を決定した。スホクラント村は廃村となり本土のカンペン市に併合された。本土に移住した島民の子孫は現在、協会を作って独自の伝統や言語の継承を続けている。

皮肉なことに、19世紀半ば以降、島に対する波の浸食や洪水は減少した。1942年の北東ポルダー完成後、スホクラント周辺は再び農地へと変わった。今日では、スホクラントは19世紀までの漁港や教会、住居、擁壁、灯台などが残る考古学遺跡群と、その歴史を展示するスホクラント博物館で有名である。また1995年にはオランダ最初の世界遺産に指定された。

2009年02月24日

ダイヤモンド (diamond)

ダイヤモンド[1] (diamond) は、結晶構造を持つ炭素 (C) の同素体の一つであり、天然で最も硬い物質である。金剛石(こんごうせき)ともいう。結晶構造は多くが8面体で、12面体や6面体もある。宝石や研磨剤として利用されている。ダイヤモンドの結晶の原子に不対電子が存在しないため、電気を通さない。
ダイバ いそべ シーアル ミュート メドレー チェンジ プロミ らんぶー キンシ トラッ ライター リモート サモエー セーブル マットレス ピナツボ ママ 大莢種 ゾーン デーモン ラミネート かむかむ ユー わらび リュージュ ネーション ターバン プリス ザック ドラドン リロート かみのく トーク フェナ メンター マトン ステビア リペア スナップ ツイスト ズー シング おにぎり デタント ほくとし ファイ マダム セオリ フィット マガダ

地球内部の非常に高温高圧な環境で生成されるダイヤモンドは定まった形で産出されず、また、角ばっているわけではないが、そのカットされた宝飾品の形から、菱形、トランプの絵柄(スート)、野球の内野、記号(◇)を指してダイヤモンドとも言われている。

ダイヤモンドという名前は、ギリシア語の adamas (征服できない、懐かない)に由来する。イタリア語・スペイン語では diamante (ディヤマンテ)、フランス語では diamant (ディヤマン)、ポーランド語では diament (ディヤメント)という。ロシア語では Диамант (ヂヤマーント)というよりは Алмаз (アルマース)という方が普通であるが、これは特に磨かれていないダイヤモンド原石のことを指す場合がある。磨かれたものについては Бриллиант (ブリリヤーント)で総称されるのが普通。

4月の誕生石である。石言葉は「永遠の絆・純潔」。
ダイヤモンドはマントル起源の火成岩であるキンバーライトに含まれる。キンバーライトの貫入とともにマントルにおける高温・高圧状態の炭素(ダイヤモンド)が地表近くまで一気に移動することでグラファイトへの相変化を起こさなかったと考えられている。このため、ダイヤモンドの産出地はキンバーライトの認められる地域、すなわち安定陸塊に偏っている。2004年時点の総産出量は15600万カラット(以下、USGS Minerals Yearbook 2004)であった。国別の生産量(単位カラット)を以下に示す。

ロシア 3560万
ボツワナ 3110万
コンゴ民主共和国 2800万
オーストラリア 2062万
南アフリカ共和国 1445万
カナダ 1262万
アンゴラ 600万
ナミビア 200万
中華人民共和国 121万
ガーナ 100万
上位6カ国、すなわちロシア (22.8%)、ボツワナ (19.9%)、コンゴ民主共和国 (18.0%)、オーストラリア (13.2%)、南アフリカ共和国 (9.3%)、カナダ (8.1%) だけで、世界シェアの90%を占める。

ダイヤモンドの母岩であるキンバーライトは古い地質構造が保存されている場所にしか存在せず、地質構造の新しい日本においてダイヤモンドは産出されないというのが定説とされてきた。しかし近年、1マイクロメートル程度の極めて微小な結晶が愛媛県四国中央市産出のカンラン石から発見された[2]。

性質
屈折
ダイヤモンドの屈折率は2.42と高く、外部からダイヤモンドに入った光は内部全反射して外に出て行く。この光は

シンチレーション - チカチカとした輝き、表面反射によるもの。
ブリリアンシー - 白く強いきらめき、ダイヤモンド内部に入った光が全反射して戻ったもの。
ディスパーション - 虹色の輝き、ダイヤモンド内部に入った光が内部で反射を繰り返し、プリズム効果によって虹色となったもの。
の3種類の輝きとなってあらわれ、それらの相乗効果によって美しく見える。

硬度・靭性・安定性
ダイヤモンドの硬さは古くからよく知られ、工業的にも研磨や切削など多くの用途に利用されている。

ダイヤモンドは最高のモース硬度(摩擦やひっかき傷に対する強さ)10、ヌープ硬度でも飛び抜けて硬いことが知られている。理論的には、ダイヤモンドの炭素原子が一部窒素原子に置換された立方晶窒化炭素はダイヤモンド以上の硬度を持つ可能性があると予測されている[3]。

宝石の耐久性の表し方は他にも靱性という割れや欠けに対する抵抗力などがある。靱性は水晶と同じ7.5であり、ルビーやサファイアの8よりも低い。よくダイヤモンドは耐衝撃性に優れているような印象があるが、鉱物としては靱性は大きくないので瞬時に与えられる力に対しては弱く、かなづちで上から叩けば粉々に割れてしまう。

安定性は薬品や光線などによる変化に対する強さ。ダイヤモンドは硫酸や塩酸などにも変化せず、日光に長年さらされても変化はおきない。

硬い理由
ダイヤモンドの硬さは、炭素原子同士が作る共有結合に由来する。ダイヤモンドでは1つの炭素原子が正四面体の中心にあるとすると、最近接の炭素原子はその四面体の頂点上に存在し、それぞれが sp3 混成軌道によって結合しており、幾何的に理想的な角度であるため全く歪みが無い。その結合長は1.54Åである。この結晶構造を持つダイヤを立方晶ダイヤとよぶ。一方で、炭素の同素体であるグラファイト(石墨)は、層状の六方晶構造で、層内の炭素同士の結合は sp2 混成軌道を形成している。この層内では共有結合を有し結合力は比較的強いが、層間はファンデルワールス結合であるため弱い。六方晶の構造を持つダイヤも存在するが、不安定で地球上には隕石痕など非常に限られた場所でしかみつかっておらず、0.1 mm を超える大きさの単結晶は存在しない。よってその性質はまだ分かっていないことも多い。

劈開性
ダイヤモンドには一定の面に沿って割れやすい性質(へき開性)がある(4方向に完全)。ダイヤモンドは、普通の物質や道具では傷つけられないと思われているが、決して無敵の鉱物ではない。「結晶方向に対する角度を考慮し、瞬間的に大きな力を加える」、「燃焼などの化学反応を人為的に促進する」などの方法で壊すことができる。

熱伝導
ダイヤモンドは熱伝導性が非常に高い。これは原子の熱振動が伝わりやすいことによる。触ると冷たく感じるのはこのためである。ダイヤモンドテスターはこの性質を利用して考案され、ダイヤモンドの類似石から識別できる道具だが、合成モアッサナイトだけは識別できない。

CVD人工ダイヤモンドの薄板を手で持って氷を切るとすぱすぱと切れる。それほどダイヤモンドが熱伝導性に優れるという。

伝導率
バンドギャップは室温で5.47eVであり、真性半導体として絶縁体だが、不純物を添加することによる不純物半導体化の試みがなされ、ホウ素添加によりp形、リン添加によりn形が得られている。その物性により、現在よりもはるかに高周波・高出力で動作する半導体素子や、バンドギャップを反映した深紫外線LEDが実現できるのではないかと期待されてきた。現在、自由励起子による波長235nmの発光がダイヤモンドpn接合LEDにより、物質材料機構と産業技術総合研究所から報告されている。バンドギャップの温度依存性については報告があるが、半経験則による計算式で用いられているデバイ温度については、負の値があてがわれたり、式自体を意味のあるデバイ温度を用いるために修正したりして報告されており、未解決になっている。 p形半導体ダイヤモンドでは、ホウ素添加濃度が1021cm-3以上で極低温で超伝導となることが報告され、半導体による超伝導現象として現在盛んに研究されている。また、1019cm-3以上では電気伝導がバンド伝導からホッピング伝導、そして濃度の上昇とともに活性化エネルギーがほとんどない金属的伝導になることが知られている。この不純物濃度と不純物準位との相関についても、不純物バンドやモットの金属・非金属転移と絡めて研究が進んでいる。このような半導体としての基礎的な議論が可能となってきた現在のダイヤモンドの半導体としての品質はシリコンと互角であると言えるが、制御性は今後の研究開発がさらに必要である。

親油性
ダイヤモンドは油になじみやすい性質があり、この性質を利用してダイヤモンド原石とそうでないものを分ける作業もある。ジュエリーとして身に着けているうちに皮脂などの汚れがつくと、油の膜によって光がダイヤモンド内部に入らなくなり輝きが鈍くなる。中性洗剤や洗顔料などで洗うと油が取れて輝きが戻る。逆に水には全くなじまず、はじいてしまう[4]。

カラーダイヤモンド
イエロー・ダイヤモンドダイヤモンドは無色透明のものよりも、黄色みを帯びたものや褐色の場合が多い。結晶構造の歪みや、窒素(N)、ホウ素(B)などの元素によって着色する場合もある。無色透明のものほど価値が高く、黄色や茶色など色のついたものは価値が落ちるとされるが、ブルーやピンク、グリーンなどは稀少であり、無色のものよりも高価で取引される。また、低級とされるイエロー・ダイヤモンドでも、綺麗な黄色(カナリー・イエローと呼ばれる物など)であれば価値が高い。20世紀末頃から、内包するグラファイトなどにより黒色不透明となったブラック・ダイヤモンド(ボルツ・ダイヤモンドとも呼ばれる)がアクセサリーとして評価され、高級宝飾店ティファニーなどの宝飾品に使用されている。

放射線処理により青や黒い色をつけた処理石も多い。最近ではアップルグリーン色のダイヤもあるがこれも高温高圧によって着色された処理石である。また、無色の(目立った色のない)ダイヤモンドに別の物質を蒸着することでコーティング処理した、安価な処理石もある。

宝飾としてのダイヤモンド
4C
ダイヤモンドの品質を知るための指標としてGIA(アメリカ宝石学協会)が考案したもの。色(カラー)、透明度(クラリティ)、カラット(重さ)、カット(研磨)によって品質を評価する。ラウンドブリリアントカット(58面体)に対してカット評価がされるので、他のカットの場合、カットの種類しか鑑定書に記載されない。

メレダイヤモンド
0.1カラット以下の小粒なダイヤモンド。宝飾品においては中石を引き立てるために周囲に散りばめられるなどの利用をされる。

有名なダイヤモンド
「カリナン」は1905年に南アフリカで発見され、カット前の原石は3106カラットもあり、これをカットすることで合計1063カラットの105個の宝石が得られた。これらは当時のイギリス国王であるエドワード7世に献上されている。105個のなかでも「ザ・グレート・スター・オブ・アフリカ(偉大なアフリカの星)」は530.20カラットで、カットされたダイヤモンドとしては長らく世界最大の大きさを誇っていた。「ザ・グレート・スター・オブ・アフリカ」はロンドン塔内に展示されており、見学することができる。

現在、世界最大の研磨済みダイヤモンドは、「ザ・ゴールデン・ジュビリー」である。この石は545.67カラットあり、国王ラーマ9世の治世50周年を記念して1997年にタイ王室に献上された。

その外の著名なダイヤモンドとしては、以下のようなものがある。有名な宝石の一覧も参照。

コ・イ・ヌール - 歴史的に最も古い有名なダイヤモンド。
テーラー・バートン - 有名なハリウッドスター夫妻にまつわるダイヤモンド。
ホープダイヤモンド - ブルー・ダイヤモンド。所有者が次々に不慮の事故で死亡し「呪いの宝石」として有名。

模造ダイヤモンド
宝飾用のダイヤモンドの代用品(イミテーション)としては、ジルコニア(二酸化ジルコニウムの結晶)やガラスが用いられる。ダイヤモンドと模造ダイヤモンドの見分け方として、油性ペンで結晶の上に線を書くというものがある。ダイヤモンドは親油性の物体であり、油脂を弾かない。一方、ジルコニアなどの模造ダイヤモンドは油を弾く性質を持っている。したがって、油性フェルトペンの筆跡が残らなければ偽物だと見分けることができる。 その他の方法としてはラインテストがある。 黒い線の上にダイヤモンドをテーブル面を下にして乗せると、下の黒い線は見えないが、キュービックジルコニアでは下の黒い線が透けて見える。

紛争ダイヤモンド
紛争ダイヤモンドは、シエラレオネなど紛争地で採掘され密売されるダイヤモンド。反政府組織の財源となり紛争の拡大、長期化の原因となる。ワールド・ダイヤモンド・カウンシルなどを中心に国際的に取引を禁止する動きがある。

人工ダイヤモンド
19世紀末のアンリ・モアッサンの実験など、ダイヤモンドを人工的に作ることは古くから試みられてきたが、実際に成功したのは20世紀後半になってからのことである。1955年3月に米国のゼネラルエレクトリック社(現ダイヤモンド・イノベーションズ社)が高温高圧合成により人類初のダイヤモンド合成に成功したことを発表した。上述の発表後に、スウェーデンのASEA社がゼネラル・エレクトリック社よりも数年前にダイヤモンド合成に成功していたという発表がされた。ASEA社では宝飾用ダイヤモンドの合成を狙っていたため、ダイヤモンドの小さな粒子が合成されていたことに気づいていなかった。現在では、ダイヤモンドを人工的に作成する方法は複数が存在する。従来通り炭素に 1,200?2,400 ℃、55,000?100,000 気圧をかける高温高圧法 (High Pressure High Temperature, HPHT。静的高温高圧法と動的高圧高温法とがある)や、それに対して大気圧近傍で合成が可能な化学気相成長法 (Chemical Vapor Deposition, CVD。熱CVD法、プラズマCVD法、光CVD法、燃焼炎法などがある)によりプラズマ状にしたガス(例えば、メタンと水素を混合させたもの、その他にメタン-酸素やアセチレン-酸素などがある)から結晶を基板上で成長させる方法などが知られている。[5]

人工ダイヤモンドは上述の静的高温高圧法においては鉄、ニッケル、マンガン、コバルトなどの金属(これらは触媒として合成時に用いられる)や窒素などの不純物の混入などで黄、緑、黒やこれらの混合した色等の結晶として生成されるのが一般的で、宝飾用途には利用されず、主に工業用ダイヤモンドとして研磨や切削加工(ルータービットやヤスリ、ガラス切り)に利用されている。

しかしながら、宝飾品レベルのダイヤモンドは人工的に合成可能で、技術的な面では何も問題は無い。これが普及しないのは、供給側(鉱山会社)の圧力があるためであるとされている[要出典]。一方、人工ダイヤモンドと天然ダイヤモンドを区別する様々な評価方法の開発・改良が進められている。特に、カラーダイヤモンド(上述)は現在様々な方法で作製可能であるが、その鑑定書を作成する公的機関では、決められた手順に沿って評価され、その過程で天然・人工の区別も行われている。評価方法は、目視・顕微鏡観察から、赤外線および紫外線の吸収・反射・透過による測定、レーザによるフォトルミネッセンス、ラマン分光法、電気伝導度測定などあらゆる角度で進められる。

CVD法によって0.1μm-10μm/hourという低速度での人工ダイヤモンド合成が1990年代に行なわれていたが、1999年頃に米カーネギー研究所が開発した、窒素を加える方法で150μm/hourの速度になってからは、ボストンのアポロ社で宝飾用のダイヤモンドを製造して販売している。紫外線によるオレンジ色の発光や、レーザーを使用したフォトルミネッセンスによるCVD独特の吸収線、カソードルミネッセンスにおける成長模様などによってCVDと天然ダイヤモンドの違いが検出できるようになってきている[4]。

工業用途
上述の高温高圧合成などによって合成された工業用ダイヤモンドはもはや高価な材料ではない。工業用ダイヤモンドにも多種あるが、金の10分の1程度の価格で取引されているものが多い。ダイヤモンドを工業用途として使用する最大の特徴はその硬さである。工業用ダイヤモンドや宝飾用途に適さない色の天然の結晶を用いることで、電子材料、超硬合金、セラミック・アルミニウム系合金・ガラスなどの高硬度材料・難削材料の研削(ダイヤモンドカッター)・研磨をはじめとして、切削用バイト、木材加工などオールラウンドな加工が可能である。

工業用ダイヤモンドには用途により、数ナノメートルから数ミリメートルまでの粒径、形状、破砕性、表面状態などによる多くの品種がある。また、前述のバイトは超硬合金を基板にダイヤモンドをコバルトなどと共に焼結することによって得られるダイヤモンド焼結体を指すこともある。しかしながら、ダイヤモンドは高温下で鉄 (Fe)、コバルト (Co)、ニッケル (Ni) と容易に化学反応を起こす、などの性質のために、鋼など鉄基合金や耐熱合金の切削には適さない。ダイヤモンドが使用できない分野では、代わりに立方晶窒化ホウ素 (cubic Boron Nitride, cBN) の焼結体(「ボラゾン™」)を用いる。

プラズマCVDなどの気相合成法によりダイヤモンドのコーティングは可能であり、一部のドリルなどでは既に実用化されている。

半導体
大部分のダイヤモンドは不導体であるが、ホウ素が微量含まれたIIb型のダイヤモンド結晶はP型半導体の特性を持ち、燐が微量含まれるとN型半導体となる。これらを使用したMES(金属-半導体結合)型やMIS(金属-半導体の間に絶縁体を挟む結合)型のFET(電界効果トランジスタ)半導体素子が研究されている。

窒化ケイ素の基板上に微量ホウ素を含むP型半導体のダイヤモンドを作ると、-70?600℃の広い温度範囲に対して直線的に抵抗値が変化する高精度の温度センサーができる。これは圧力センサーとしての利用も検討されている[4]。

ダイヤモンド・アンビルセル
ダイヤモンド・アンビルセル (diamond anvil cell, DAC) は、天然または人工合成のダイヤモンドを使って超高圧を実現するための機械。小さなダイヤモンドを2つ用意し、その間に試料を挟み込んで圧縮する。小型(手のひらサイズ)で透明(リアルタイムで光学的な観測が可能)であり、サブテラパスカル(数百万気圧、数百GPa)までの加圧が可能である。鉱物学や物性物理学などで用いられる。一方、ダイヤモンドそのものが大型化できないので、試料は大変小さなものにしなければならない。ダイヤモンド以外に、サファイヤ、炭化ケイ素を使ったアンビルセルもあるが、加圧できる圧力はダイヤモンドよりも劣る。なお、アンビルとは金床のことである。

レコード針
レコードプレーヤーのレコード針に使われる。

文化

比喩
ダイヤモンドは、貴重なもの・高価なもの・お金になるものの比喩としてよく使われる。また、色を冠して特定の商品を表すこともある。

黒いダイヤ - 石炭、トリュフ、オオクワガタ
赤いダイヤ - アズキ
白いダイヤ - シラスウナギ(ウナギの稚魚)、吉野葛(本葛)
黄色いダイヤ - 数の子、硫黄

フィクション
映画『ブラッド・ダイヤモンド』:武器の資金調達のため不法に取引される紛争ダイヤモンドについて、リアルに描写。
映画『ロード・オブ・ウォー』:武器取引の代金として紛争ダイヤが登場する。

2009年02月07日

ローザ・ルクセンブルク

ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg, ポーランド語名ルジャ・ルクセンブルク、Róża Luksemburg 1871年3月5日 - 1919年1月15日)は、ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。
チップ ドミナ シェルパ トースター ダフる日本 ぶんたん シンクロ ドラバ ミスジャ スフレ デネブ バラン フレスコ ドンマイ モロヘイヤ ハンド リムパック バルナ ジュンブ 有明の月 リバランス リフィル 聖護院 ハイカ デフレー スライム 宵月の宴 アシスト パイオニア ハルビ トータル パード サラダ サーチ恋道 チェリ エイトビー ミルト ユーティ ランド ディー ゲーセン 世界の窓 スト チアナ タントラ スタンス 宝船 ヘアー ブルドッ フリーサ

彼女はポーランド王国社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党(ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。 機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて武装蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。その死以後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに革命の象徴的存在とされている。

ローザ・ルクセンブルクは1870年もしくは1871年3月5日、事実上ロシア帝国の属国であったポーランド立憲王国の都市ルブリン近郊のザモシチに住むユダヤ人の木材商人エリアス・ルクセンブルク3世とその妻リーネ(旧姓レーヴェンシュタイン)の5番目の子供として生まれた。出生時の名前はロザリアである。生年について2通りの説があるのは、チューリッヒ大学へ提出した履歴書には1871年生まれと記載されているのに対し、1887年に発行されたアビトゥア資格(ドイツの大学入学資格)証書には彼女が17歳である(すなわち1870年生まれである)と記されていることによる。自由な雰囲気の家庭で過ごした少女時代にはゲーテやシラーに傾倒して多大な影響を受けた。

1880年に一家はワルシャワへ転居、ローザはワルシャワ第2女子ギムナジウムへ通うこととなり、1887年には優秀な成績でアビトゥア資格試験に合格してギムナジウムを卒業した。前年の1886年以降、彼女はポーランドの左翼政党「プロレタリアート」のメンバーとなっている。「プロレタリアート」は1882年に設立されてゼネラル・ストライキを組織しはじめていたが、指導者のうちの4人が処刑されて党自体はすでに解散に追い込まれていた。この組織の残党によるいくつかのグループがかろうじて地下で会合を続けており、ローザはこれらのグループの1つに加わり、社会主義的な政治思想を形成するようになったのである。この組織は非合法なものだったため1889年にはローザにも拘留の危機が迫り、スイスのチューリッヒに亡命。チューリッヒ大学哲学科へ入学し、哲学、歴史学、政治学、経済学、数学を学んだ。同じ時期にはアナトリー・ルナチャルスキーやレオ・ヨギヘスといった社会主義者たちもこの大学に在籍していた。「Staatswissenschaft(政治体制の科学)」、中世史、経済学および証券恐慌論などを研究する。

1890年に社会民主主義に対するビスマルクの規制が解かれ、ドイツ社会民主党(以下SPD)は国会の議席を得ることが法的に可能となった。しかし社会主義者の議員たちは、口先では革命について語りながら権力や富の拡大ばかりにうつつを抜かすようになった。

それに対しローザは革命的マルクス主義者としての信条を守り抜き、1893年にはポーランド社会党の国家主義的な方針に反対しレオ・ヨギヘスやJulian Marchlewski(またの名をJulius Karski)らとともに「Sprawa Robotnicza」(「労働者の主張」?)紙を発刊。ローザは、ポーランドの独立はドイツ、オーストリアおよびロシアでの革命を通してのみ可能であると考えており、闘争はポーランド独立を目標とするものではなく、資本主義そのものに対するものでなければならないと主張した。ポーランド独立に反対したのは、彼女が「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである」というエンゲルスのテーゼに忠実であり、カウツキーの「民族融合論」に賛同してレーニンらの唱える社会主義の下での民族自決権を否定したためである。このことにより、のちにレーニンとのあいだに対立が生じることとなる。

同1893年、ヨギヘスとともに、ポーランド王国社会民主党(以下SDKP)を創設(のち1899年にはリトアニアの社会民主主義者らの組織と連合してポーランド・リトアニア王国社会民主党(en:Social Democracy of the Kingdom of Poland and Lithuania、以下SDKPiL)と名を変え、1918年に結成されるポーランド共産主義労働者党の前身組織の一つとなる)、ワルシャワで非合法に第1回党大会を開催する。成年期の大半はドイツで過ごしているものの、ローザはポーランドの社会民主主義者を代表する理論家であり続け、中心的なオルガナイザーであるヨギヘスとともに党を指導した。なおヨギヘスは、のちにローザらが結成するスパルタクス団の主要メンバーが次々と逮捕されて活動継続が困難になったときにも、機関紙『スパルタクス書簡』の編集や配布・メンバー間の連絡などを請け負った。

1896年に第二インターナショナルのロンドン大会に出席するなど、社会主義者として活動すると同時に大学での研究にも精力的に取り組み、1897年には学位論文「ポーランドにおける経済の発展」により最優秀の評価を得て法学博士号を取得する。

ドイツ移住
1898年、ローザはグスタフ・リューベックとの偽装結婚によってドイツ市民権を取得し、ベルリンへ転居。ドイツ社会民主労働党(後のドイツ社会民主党。以下SPD)に入党し、同党左派での活動を開始。それ以前から修正主義を唱えていた主流派のエドゥアルト・ベルンシュタインが1899年に発表した論文「社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務」に対し「社会改良か革命か」と題したパンフレットで激しく反論する。この一件により、SPD随一の雄弁家・理論家として党内外の国際社会主義運動において広く知られるようになる。

このころには戦争の気配がいよいよ濃厚となり、ローザはSPDの順応主義的な議会路線への批判を強めた。ローザは、資本と労働のあいだの決定的な差異を埋めるには、プロレタリアートが権力を獲得し生産方法に関わるすべてに革命的な変革が起こらない限り不可能であると主張して修正主義者たちの離党さえ望み(さすがにこれは叶わなかったが)、議会制民主主義を重視する多数派や党指導部のカウツキーらとの対立に至る。ただし、カウツキーも(議会での議席数増大がその狙いである以上)党綱領からマルクス主義を捨て去ることまではしなかった。

1900年以降、ローザは『ライプツィヒ人民新聞』やSDKPiLの機関紙『赤旗』をはじめとするヨーロッパ中のさまざまな新聞記事で目下の経済・社会問題に関する意見を表明し(特に1905年のロシア第一革命に対してはその歴史的意義と支持の意を強く表明、ゼネストの重要性を確信し党の戦術として採択するよう主張するようになる)、1904年から1906年のあいだには政治活動の咎によって3度も投獄されるが、なおも彼女の活動は精力的に続く。


ウラジーミル・レーニン1907年ロンドンで開催されたロシア社会民主労働党の第5回党大会にはポーランド代表として出席し、レーニンと対面する。そのすぐ後に開催された第二インターナショナルのシュトゥットガルト大会で採択された戦争反対決議案(反戦のために全ヨーロッパ労働者階級の結束を求めるもの)はローザとレーニンによって起草されたものである。1906年にベルリンで開設されたSPD党教育センターでマルクス主義と経済学の講師を勤めるようになったのもこのころのことであり、ローザの主著の一つ『経済学入門』はここでの講義をまとめたものである。またこのときの受講者の一人には、のちのSPD議長にしてワイマール共和国初代大統領、ドイツ革命の際には臨時政府元首としてローザを弾圧することになるフリードリヒ・エーベルトがいる。

これ以前から戦争の危機が近づいているとの確信を深めていたローザは、ドイツの軍国主義と帝国主義に対する攻撃の手を強めてゆき、1910年には戦争を食い止めるために党の採るべき革命的戦術として労働者に団結を促しゼネストを組織するようSPDの方向転換を要請する論文を執筆。しかしこれが党指導部に受け入れられず機関紙『新時代』への掲載を拒否されたためカウツキーらとの決裂は避けられないものとなった。

1912年2月にはSPD代表としてパリをはじめとするヨーロッパの社会党大会などへ出席。フランスの社会主義者ジャン・ジョレスとともに、もしも戦争が起こったときにはヨーロッパの労働者諸政党はゼネストに突入するであろうことを確約した。1914年にバルカン半島の政治的緊張が頂点に達して戦争の避けられないことが誰の目にも明らかになってきたとき、ローザはフランクフルトほか各地でデモを組織し、良心的兵役拒否や命令への不服従を訴えかける。この件により「法と秩序への不服従を煽動」したとされ懲役1年の有罪判決を受ける。拘留は即座には執行されなかったので、同年7月ブリュッセルでの国際反戦会議には参加することができた。しかしこの会議を通して、各国の労働者党においてナショナリズムが階級意識(en:Class consciousness)よりも濃厚になっていることを認めざるをえず落胆する。

1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発。8月3日にはドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告した。翌日、議会は戦時公債を発行し戦争に融資することを満場一致で可決。SPDの議員も全員がこれを支持し、戦争中はストライキを控えると約束して政府と休戦する。またローザと同じく非戦を唱えていたジャン・ジョレスが暗殺され求心力を失ったフランスやオーストリアの社会主義者たちもこれに同調、こうして第二インターナショナルの命脈は尽きた。これを聞いたローザは自殺の考えが一瞬頭をよぎるほどの衝撃を受けた。1899年以来彼女が戦い続けてきた修正主義が勝利を収め、戦争が始まったのである。


スパルタクス団結成
カール・リープクネヒトローザを筆頭としカール・リープクネヒト、クララ・ツェトキン、フランツ・メーリングらを中心とした党内左派は1914年8月5日に「グルッペ・インターナツィオナーレ」 (Gruppe Internationale) を結成する。翌1915年4月には機関紙『インターナツィオナーレ』を刊行し、論文『社会民主主義の危機』において破綻したインターナショナルの再建を訴え(ただし即座に発禁処分を受ける)、7月には党指導部宛に抗議書簡を投げかける。「グルッペ・インターナツィオナーレ」は1916年1月1日にリープクネヒト宅で全国協議会を開き、当時拘禁されていたローザが獄中で起草した指針を採択し、『スパルタクス書簡』と題した非合法の冊子を発行することが決定され、メンバー共有のペンネームとして「スパルタクス」(共和制ローマで奴隷たちによる反乱を率いたトラキア出身の奴隷剣闘士の名)が用いられた。これにより「グルッペ・インターナツィオナーレ」は「スパルタクス団」として知られるようになる。ローザ自身は共和制ローマの創設者で初代執政官と伝えられるルキウス・ユニウス・ブルートゥスにちなむペンネーム「ユニウス」を用いた。

スパルタクス団はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世および政府と妥協して戦争支持に回ったSPDの方針を拒否し、出獄したローザは再度ゼネストを要求して5月1日にはメーデーのデモを煽動するなど闘争を展開した。その結果、7月10日には再逮捕されてリープクネヒトとともに禁固2年半を宣告される。はじめはポズナン(ドイツ名ポーゼン)、次いでヴロツワフ(ドイツ名ブレスラウ)の刑務所へ収容された。この拘留期間にも彼女は「ユニウス」の名でいくつもの論文を執筆し、ヨギヘスほか仲間たちの手で地下出版された。これらの論文は、ドイツ労働者への武装蜂起の呼びかけや勃発直後のロシア革命に関する見解(具体的にはレーニン批判)をその内容とする。

ローザ・ルクセンブルクのロシア革命・レーニン批判
ロシア革命以前からローザはレーニンの前衛党論に反対していた(1904年にレーニンの発表した『一歩前進二歩後退』への批判に始まる。議会主義への態度をめぐって対立していたカウツキーともこの点においては一致していた)。批判の第一は革命後の独裁(プロレタリアート独裁)のあり方・解釈についてである。プロレタリア独裁とは階級の独裁であって一党一派の独裁ではないと主張したローザは、革命後における民主的自由を擁護する立場を取った。批判の第二は、運動組織原則(レーニンの前衛党論)に対してであった。革命は自然発生的でなければならないと考えたのも、前衛党論批判の理由の一つであった。
獄中にいた1917年、レーニンを指導者とするボリシェヴィキによってソビエト政権が樹立された十月革命の報に接するや、レーニンの前衛党論を改めて論難し、実際の十月革命が自然発生的でないことや革命後の民主的自由が危ういことなどを指摘、ボリシェヴィキが新たな独裁を生むだろうと予言し獄中から警句を発した。
具体的には、ボリシェヴィキによる憲法制定会議の解散を批判し、「搾取者」(すなわち革命政府への反対者)にも選挙権を与えるべきであること、出版・結社・集会・言論の自由を保障するべきであることを批判した。ローザの有名な言葉「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.(自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である)」はこうした文脈のもとに書かれたものである。これらの批判は死後、弟子によって出版されたが、ローザ本人の確認を経ていないことから、ローザの真意が記されているわけではないと旧ソ連は批判していた。

ドイツ革命
1917年にアメリカが参戦したころ、スパルタクス団はやはり戦争反対の立場からSPDを脱退したカウツキーらによって結成された独立社会民主党(de:Unabhängige Sozialdemokratische Partei Deutschlands、以下USPD)と合流する。1918年11月4日に起きたキール軍港における水兵の反乱およびロシア革命時のソビエトに倣った「労働者・兵士協議会(レーテ)」の結成が引き金となってドイツ革命が勃発し、同9日に皇帝が廃位されると(同日ローザも釈放される)、USPDは勢力を拡大したSPDとともに共和政の新政府を樹立する(首班はエーベルト、革命後のヴァイマル共和国である)。

ヴロツワフの刑務所から釈放されたローザは、すでに釈放されていたリープクネヒトとともにスパルクス団を再編し、機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊した。同紙で書かれた最初の論文では、すべての政治犯に対する特赦と死刑制度の廃止を要求した。

しかしそのころ、USPDら急進派を快く思わないエーベルトは軍部と手を組むことを選んでいた。この協定により、革命で崩壊しかけた国軍の残党や国家主義者、右翼らによる反革命義勇軍(フライコール)が創設され、やがて革命派に対する武力鎮圧が始まる。あくまでも穏健な社会民主主義に拘泥した結果である。USPDは当然これに強く抗議して連立政府から撤退する。1918年末にスパルタクス団はUSPDから再度分離し、その他の社会主義者や共産主義者のグループと連合。12月29日から翌1919年1月1日にかけて開かれた創設大会をもって、ついにローザとリープクネヒトを指導者とするドイツ共産党(de:Kommunistische Partei Deutschlands、以下KPD)が誕生する。


東ベルリンにあるローザ・ルクセンブルグ像ローザはのちにヴァイマル共和国議会となる全国憲法制定議会との関係を保っていたが、選挙に勝つことはできなかった。この1月、ドイツ革命は新たな局面を迎える。ローザが『Die Rote Fahne(赤旗)』の巻頭論文で反乱軍に対しリベラルな新聞の編集部を占拠するよう示唆したのと前後して、各地の主要施設が武装した労働者をはじめとする革命軍によって占拠されたため、エーベルトのSPD政府はフライコールを出動させて革命軍への弾圧を本格化したのである。1月9日から15日にかけての激しい戦闘でスパルクス団ほかの革命軍は壊滅、レーテも解体されてゆく。ローザとリープクネヒトは1月15日にベルリンでフライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に二人とも虐殺された。リープクネヒトは後頭部を撃たれて身元不明の死体置き場へ運ばれ、ローザは銃床で殴り殺されて近くの川に投げ捨てられた。ローザの死体は六ヶ月ものあいだ放置され、拾い上げられたときには識別困難であったという。

2009年01月23日

生物の多様性に関する条約

生物の多様性に関する条約(せいぶつのたようせいにかんするじょうやく、英: Convention on Biological Diversity / CBD、平成5年条約第9号)とは、生物の多様性を「生態系」「種」「遺伝子」の3つのレベルでとらえ、(1)生物多様性の保全、(2)生物多様性の構成要素の持続可能な利用、(3)遺伝資源の利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分 を目的とする国際条例である。「生物多様性条約」と略称される。

国際自然保護連合(IUCN)などの環境保護団体の要請を受け、1987年から国連環境計画(UNEP)が準備を開始した。同管理理事会の決定によって設立された専門家会合における検討、および1990年11月以来7回にわたり開催された政府間条約交渉会議における交渉を経て、1992年5月22日、ケニアのナイロビで開催された合意テキスト採択会議においてコンセンサス採択された。

同年6月にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球サミット、UNCED)で調印式を行い、6月5日に署名開放、1年間の署名開放期間中に168の国・機関が署名。1993年12月29日に発効した。 2006年2月現在、日本を含む188か国およびECが加盟している。

内容
絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)やラムサール条約のように、特定の行為や特定の生息地のみを対象とするのではなく、野生生物保護の枠組みを広げ、地球上の生物の多様性を包括的に保全することが、この条約の目的である。 また、生物多様性の保全だけでなく、「持続可能な利用」を明記していることも特徴の一つである。

条約加盟国は、生物多様性の保全と持続可能な利用を目的とする国家戦略または国家計画を作成・実行する義務を負う。 また、重要な地域・種の特定とモニタリングを行うことになっている。

さらに、生物多様性の持続可能な利用のための措置として、持続可能な利用の政策への組み込みや、先住民の伝統的な薬法など、利用に関する伝統的・文化的慣行の保護・奨励についても規定されている。

この他、遺伝資源の利用に関しては、資源利用による利益を資源提供国と資源利用国が公正かつ衡平に配分すること、また途上国への技術移転を公正で最も有利な条件で実施することが求められている。

また、この条約には、先進国の資金により開発途上国の取り組みを支援する資金援助の仕組みと、先進国の技術を開発途上国に提供する技術協力の仕組みがあり、経済的・技術的な理由から生物多様性の保全と持続可能な利用のための取り組みが十分でない開発途上国に対する支援が行われることが定められている。さらに、生物多様性に関する情報交換や調査研究を各国が協力して行うことになっている。

この計画策定作業を促進するために、1995年にWRI、IUCN、UNEPが作成した「生物多様性計画ガイドライン」が重要参考資料として指定されている。

カルタヘナ議定書
この条約では、生物多様性に悪影響を及ぼすおそれのあるバイオテクノロジーによる遺伝子組換え生物(Living modified organism, LMO)の移送、取り扱い、利用の手続き等についての検討も行うこととしている。

これを受けて、2003年には、遺伝子組み換え作物などの輸出入時に輸出国側が輸出先の国に情報を提供、事前同意を得ることなどを義務づけた国際協定「バイオセーフティーに関するカルタヘナ議定書(カルタヘナ議定書、バイオ安全議定書)」が発効した。

日本国ではこれに対応するための国内法として遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律(遺伝子組換え生物等規制法、カルタヘナ法。従来の組換えDNA実験指針に代わるもの)が制定され2004年に施行された。

締約国会議
生物多様性条約締約国会議の事務局は、カナダのモントリオールに置かれている。 締約国会議は、1994年11月以来、ほぼ2年ごとに開催されている。

課題
生物多様性条約(CBD)成立以前の10数年の国際的な取り組みとして、遺伝資源は人類共通の財産である、という合意(植物遺伝資源に関する国際的申し合わせ International Undertaking on Plant Genetic Resources, 1983)が国連食料農業機構(FAO)の専門家の間でなされつつあった。しかし、特許や育種者の権利等の知的所有権強化の流れもあり先進国には反対の声も多くあった。新品種等への完全な遺伝資源アクセスを認めると育種者や特許保持者の権利が著しく損なわれる場合があるからである。

国際的な知的所有権強化の流れに対抗して、「遺伝資源」の利益配分を生物多様性条約採択の交渉の過程で途上国が強く主張した。これは途上国の遺伝資源を利用する先進国のバイオテクノロジー産業が影響を受ける点で、先進国に受け入れ難い点であり、このため交渉が難航した。(アメリカがいまだに批准しないのも、主にこの理由による。)

結果としては、各国は自国の遺伝資源に対する主権的権利を有することが認められ、「遺伝資源の利用から生じる利益の公正かつ衡平な配分」が、生物多様性条約(CBD)に第三の目的として組み込まれることとなった。

参考資料 生物多様性の保全とその利用から生ずる利益配分に関する一考案(山本昭夫) (PDF) 農業生物資源ジーンバンク サイト内
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日本の取り組み
日本は1992年6月13日に署名、1993年5月28日に、寄託者である国連事務総長に受諾書を寄託することにより条約を締結、18番目の締約国となった。 この条約の発効以来、日本は最大の拠出国であり(拠出額は第1位(全体の22%))、条約実施のために多大な財政的支援を行っている。

国内では、条約上の義務を履行するため、行政上または政策上の措置を講じている。 1995年に生物多様性国家戦略を策定、2002年3月には、里山・干潟等を含めた国土全体の生物多様性の保全、自然再生の推進、多様な主体の参加と連携などの内容を盛り込んだ改訂を行った。

2009年01月16日

親鸞(しんらん)

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親鸞(しんらん)は、鎌倉時代初期の日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。 明治9年(1876年)11月28日に明治天皇より「見真大師」(けんしんだいし)の諡号を追贈されている。

親鸞は、法然(浄土宗開祖)を師と仰いでからの生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形であった。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となって、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。 在世当時の朝廷や公家の記録にその名が表れていなかったことから、存在そのものが架空視されていたが、20世紀初頭に教団内外から真筆の文章が多数見つかりはじめ、現在では、実在したとされている。

影響を与えた人物・書物
七高僧
称名念仏の教えを説き示し、受け伝えた高僧として、以下の7人を選定した。
インド仏教
龍樹菩薩 - 『十住毘婆沙論』「易行品」・『十二礼』
天親菩薩 - 『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論)
中国仏教
曇鸞大師 - 『無量寿経優婆提舎願生偈註』(浄土論註)・『讃阿弥陀陀佛偈』
道綽禅師 -『安楽集』
善導大師 - 『観無量寿経疏』(観経疏)・『往生礼讃偈』(往生礼讃)・『転経行道願往生浄土法事讃』(法事讃)・『依観経等明般舟三昧行道往生讃』(般舟讃)・『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』(観念法門)
日本仏教
源信和尚(げんしんかしょう) - 『往生要集』
源空聖人(法然上人) - 『選択本願念佛集』(選択集)
聖徳太子
「和国の教主」として尊敬し、観音菩薩の化身として崇拝した。 - 『十七条憲法』

教え
教えに関しての詳細は、各派により異なるため本願寺派・大谷派などのページを参照のこと。以下の説明は、概要である。

根本経典
「浄土三部経」と総称される、釈尊により説かれた『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経』を、拠り所の経典と定める。特に『佛説無量寿経』を『大無量寿経』(『大経』)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視した。
『佛説無量寿経』には、阿弥陀仏に現世で救われて「南無阿弥陀仏」と報謝の念仏を称える(称名)身になれば、阿弥陀仏の浄土(=極楽)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれる。なぜなら法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が、48の誓願(=四十八願)を建立し、その第18番目の願(=本願)である第十八願に「すべての人が救われなければ、わたしは仏とはならぬ」(「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」)と誓われ、それらの願がすべて成就して仏になられたと説かれているからである。この為、人(凡夫)が極楽浄土へ往生出来るのは阿弥陀仏の本願によるものであり、この理(ことわり)を賜る(=信心をいただく)ことにより、往生への道がひらける(易行道)。信心正因称名報恩という。
他力本願
前述した通り、信心も自分から信ずる心の意味ではなく、阿弥陀仏から賜ったものであり、すべてが阿弥陀仏のはたらきであるとする。これを他力本願(たりきほんがん)と呼ぶ。ここで言う人(凡夫)とは、仏のような智慧を持ち合わせない末法の世に生きるすべての人を言う。しかし、自力で悟りを開こうとする人(難行道を選ぶ人)を否定するものではない。なぜならば、阿弥陀仏のはたらきは、「摂取不捨」であり、はたらきの対象はすべての衆生である。。また、「正信偈」に「彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯」とあり、誤り無く信心を持ち続ける(いただき続ける)のは、非常に難しい事だとも、親鸞は述べている
他力とは阿弥陀仏のはたらき(力)を指す。「他人まかせ」や「太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働き」という意味での使用は、本来の意味の誤用から転じ一般化したものであり、敬虔な浄土真宗信者(門徒)は、後者の表現を嫌悪・忌避する。
悪人正機
「悪人正機」と呼ばれる思想は、すでに親鸞の師・法然に見られる思想であるが、これを教義的に整備したのが親鸞であるともいわれる。悪人正機は、上記「他力本願」とも関係する思想である。
『歎異抄』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)とある。人(凡夫) は、自力で善(往生の手段となる行為)を成し遂げることが不可能な存在であるとして捉えた上で、「善根を積むことができると信じている『善人』ですら往生できるのだから、悪(往生の手段とならない行為)しか成さない身と自覚している『悪人』の方が、『善人』と思い込んでいる者より、阿弥陀仏のはたらきに目覚めさせられ、救われる」ということである。一見すると逆説的であるが、実際は「他力」による摂取不捨の救済を強調した表現である。大乗無我思想のひとつの到達点といえる。
現生正定聚
阿弥陀仏に救われている私であるとして、信一念時に、極楽浄土に往生出来る身に定まった現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)の身となり、浄土の功徳を現生に感得し証明しながら生きていくこととした。