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孝宗の治世

秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石機の戦い(紹興三十一年、1161年)で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄、世宗)が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙慎(孝宗)が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ(隆興の和議、または乾道の和議とも言う)。

金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。

孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。
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孝宗は淳熙十六年(1189年)に退位して上皇となり、光宗が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、皇后李氏の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚・韓侂冑などにより光宗は退位させられた。韓侂冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓侂冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓侂冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓侂冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年には趙汝愚に与した周必大、留正、王藺、朱熹、彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。その翌年には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を慶元の党禁という。

韓侂冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた皇后と皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方のタタールなどの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、開禧二年(1206年)に北伐の軍を起こす(開禧の北伐) 。

しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧三年(1207年)、金は早期和平を望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎(文部大臣)の史弥遠により韓侂冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られれ、翌年の嘉定元年(1208年)に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。

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2009年05月31日 10:01に投稿されたエントリーのページです。

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